しゃべりすぎ研究所

毎日更新を目指して書きます。 音声認識を駆使して口述筆記する日もあります。

2021年03月

 大人から子供まで、全ての人に贈りたい考え方だ。
 普段から筆者は、朝、目覚めた時から始まり、頭の中が「とっ散らかっている」(=混乱している、散らかっている)。
 順番はこうだ。
目覚める ⇒ スマホを枕元で手で探り探す ⇒ スマホ見つからず。起きる ⇒ リビング、居間に行く ⇒ スマホが見つからない ⇒ 寝床に戻ってスマホ探す ⇒スマホ見つかり、リビングに戻る ⇒ 夜寝床で読んだ漫画、小説が気になりだす ⇒ 寝室に戻る ⇒ 本探す、見つからない ⇒ リビングで見つかる ⇒ (以下繰り返し)。
 これは、探しものにおいて一例だが、仕事中であれば、頭の中は3つの仕事があるなら(用事や、やる事、小さな日々の仕事)、あっちが気になりこっちが気になり、この繰り返しである。

1つの用事や仕事であっても、少しやれば、さらにいくつもの用事や仕事が発生してくるものだ、つまり、蜘蛛の子を散らすように、というか、蜘蛛の巣が真ん中から外に広がる形を思い浮かべてほしいが、無数の用事が発生するものだ。
結論、一度に全く異なる仕事をするのは不可能なのである。

 道具の発展によって我々は発展してきた。
 現代において車の存在を否定する人はあまりいないのではないだろうか。
 炊飯器や、洗濯機の存在は主婦の強い味方で、機械が労働することで、主婦は他の目標の為に働いたりできる。
 力持ちの男性でさえ持ち上げられない物を、クレーンなどが代わって運ぶ。
 様々な労働が道具により肩代わりされ、自由な時間が増え、人が多様な目的のために行動できるようになった。
 
 

 日記やブログ更新を毎日するのは、難しい。
 理由はこうだ。
書くことは何でもあるはずだが、生きているんだから、しかし、目的や、書く意義がないから書くのを「忘れる」のだろう。
 筆者の日々を思うと、毎日何か思い、ちょっとした出来事はある。
 しかし、書くのを忘れる。つまり、書く必要性や、日記やブログの存在を忘れる。
 つまり、忘れるということは、それほど本能が「書く」ということを忘れてしまうほど、重要性が低いのだろう。
 人それぞれ性格によるが、日記を必要とする性格かどうか?にもよるのだろう。
 例えば、筆者も経験があるが、文字に書き出すと、その時の思考が整理されて、頭の中がスッキリ並び直され、整ったと感じることがある。
 これは、頭の中の記憶の断片が、バラバラの要素から、論理的なつながりを順序だて再構成され、呼び出しやすくなったからである。つまり、ギュッとゅ圧縮され、頭の中引き出しの手前に並べられたのである。
 書くという、一見して無駄な行為は、人の頭脳の限界をさらに上げる道具となっているのである。
 太古の世界から、壁に動物の絵があるなど、文字の起源はとても驚きに満ちたものであり、現代のわれわれの扱う文字は、非常に洗練された「情報」なのである。

いつも日本語を使っていると、なにげなく漢字とひらがなを混ぜて使っている。筆者の日本語力には自信が無いが、漢字だけでも何となく伝わるのでは?と安易に考えている。

 こんな浅はかな考えを持つのは、昔、バイト先仲間の中国人留学生二人と雑談をしていたときの話が強く記憶に残っているからだ。

 私達がマクドナルドで時間を潰していると、当時年上の留学生男性が、日本の新聞を読めていたのに驚いた。
筆者が、どの程度読めているか聞くと、彼は「だいたい読めるよ、漢字がわかるから」と言った。
  当時は、そんなものか?漢字だけで類推するなんて、と思っていた。
 今思うと、彼は新聞のニュースだからこそおおよその事実はわかる、と言っていたのだ。
 つまり、細かな文脈は除いて要点は解ると言っているのだ。
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 筆者は人の話をあまり深く理解していない。聞く気が無いという、性格と意識が原因かもしれない。
 当然、仲良しな友人知人の話は興味津々(しんしん)で聞くことができる。
 一方でこう有りたいと考える、誰もが話そして、伝わりにくい話し方の人もいるだろう。
 しかし、理解する力が自分に足らないことは、なかなか自覚できていない筈である。
 読書をする場合、嫌いな種類の本が誰でもあると思う。
 ズバリ読みにくいと感じている種の本があると思う。
 それは、難しい本なのか?単語、予備知識、言い回し?人が他者の書く文章を読みにくいと感じるのは、たぶん、作者の問題ではない、読み手にも明らかにレベルが必要となるのだ、高い教養も必要なのだろう。

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